大満寺の本堂、東側には開基檀があります。
その最上段の真ん中には『大慈院殿』と記された仙台藩二代藩主・伊達忠宗公の霊位牌が奉られています。
その霊位牌に、寄り添うように『景嘯院殿』と記されたご位牌が奉られています。
そのご位牌の主は、生前の名を“ 古内主膳重広 ”といいます。
伊達政宗公に見出され、伊達忠宗公の家老として藩主を支え、仙台藩政の礎を築いた人物です。
当寺にゆかり深いこの方を、今に伝える語り部として足跡をご紹介してゆくことにいたしましょう。
古内主膳重広公は、1589年国分彦九朗盛重(伊達家晴の五男で伊達政宗の伯父、以下:国分盛重)の子として生まれました。幼名を平蔵といいます。
1596年、国分盛重は岩出山への出任の命を病と称して拒否した為に“叛意あり”とされ、伊達政宗に滅ぼされてしまいます。その際、まだ幼かった重広公(平蔵)は根白石のあたりに落ち逃れます。その後、国分家の家臣であった古内実綱にかくまわれ、養嗣子として古内家で大切に育てられます。
やがて、成長した重広公は根白石の猟場を訪れた伊達政宗公の御前へと召しだされます。
重広公の優れた馬術を見初めた政宗公は、世継ぎである忠宗公の騎馬指南役に重広公を取り立てます。1608年、重広公20歳の出来事でした。
重広公には、このようなエピソードが残されています。
文武に秀で容姿端麗な重広公は様々な人々の覚えがめでたく、城への出仕の折には奥向きの女中が大手門へと集まり垣間見たそうです。
1636年、忠宗公が藩主になると奉行職に任ぜられ、重広公は要害・岩沼郷を拝領します。古内家は中堅の家格であり、政宗公の時代には決して奉行職に就くことのなかったことから、これは破格の重職であったと言えます。
以降、忠宗藩政は1658年までの22年間に及びます。
この時期は徳川家三代・家光公の頃であり、戦乱の世の中から平定の時代へと移り変わる時代であったと言えます。英雄である父・政宗公が敷いた藩政の基礎を、忠宗公は行政機構として整備してゆきました。
重広公の名声を今日に語り継ぐ功績があります。
仙台北部平野の新田開発事業です。藩主・忠宗公の命を受けた重広公が土木技術者、川村孫兵衛らと共に農業用水確保の為に水路と堰の建設に挑んだのです。
工事では様々な困難に遭遇しながらも、重広公は川村孫兵衛をはじめ多くの人々の力を得て、21キロにも及ぶ用水路と伊豆原地区(現在の栗原市・栗駒高原付近)に堰を完成させました。これにより、仙台藩は実に1万5千石もの石高を増やすことになりました。
この施設は「伊豆野堰」と呼ばれ、現在も約2260haもの水田に水を送り続けています。
忠宗公は、仙台藩政の基礎をしっかりと固めたと言えるでしょう。
その忠宗藩政を、筆頭家老として終始支え続けた人物が古内主膳重広公でした。
忠宗公の最大の信頼を受けた家臣であったと伝えられています。
1657年、重広公は隠居します。
翌1658年7月12日に忠宗公の病死の報に殉じ、追い腹を切り69年の生涯を閉じました。
重広公のご霊廟
当寺の西側、丘の上に重広公のご霊廟があります。
その墓石には奥方である寶樹院の名も刻まれています。
夫婦での単体同一の墓石は非常に珍しく生前の重広公がたいへん愛妻家であったことを現在に伝えています。墓石は忠宗公の供養のために古内家が建立した薬師如来像の傍らにあります。
また、重広公夫妻の墓石のそばには主である重広公の後を追って殉じた家臣 三名の墓石も並んでいます。
古内主膳重広公木像
当寺、本堂の正面東側、開基檀の中央には『古内主膳重広公木像』が安置されております。
もとは岩沼・仁巌神社に奉られていましたが戦後、古内家により当寺へ奉納されました。
同時に重広公の妻である寶樹院の木像も当寺へ奉納されています。